外国人の戦略的雇用

外国人の戦略的雇用: 難民雇用を通じた自他共栄

■弊社の取組み

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栄鋳造所では、企業の付加価値をあげるために「企業の中核的な業務を担う貴重な人材」としての戦略的な雇用を推進しています。2012年から力を入れているのが、外国人の戦略的雇用。外国人を安価な労働力として雇用するのではなく、海外展開先の語学、文化慣習を持ち、貪欲に日本のものづくり技術を取得する人材として採用する。その取り組みの第一歩が、栄鋳造所の難民雇用です
求めた人物像は、日本語は話せなくても、英語が話せる外国人、日本で生活をすると覚悟を決めた外国人。難民の採用後は、言葉や文化風習の違いから様々な問題が発生しました。一方で、これらは会社内に様々な変革をもたらしました。例えば、社内が自然と英語を意識するようになり、現場リーダーが注意書を英訳し貼り出す動きが生まれました。
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■地域への波及

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弊社の難民採用をきっかけに、「外国人の戦略的雇用勉強会」が立ち上がりました。目的は、産業振興の観点から、外国人の有効活用できる可能性を検討すること。メンバーは、製造業やサービス業を含む地元企業、大学、NPO、国際交流協会、行政の有志から構成。勉強会では、地域で外国人を戦略的に雇用するためには、企業の力だけでは足らず、住環境など、地域ぐるみでどう取り組めるか、議論が進んでいます。

■ NPOとの協働

栄鋳造所では、これまでの難民雇用経験で、様々な課題に直面してきました。この経験を生かして、弊社、および地元企業、難民がそれぞれ安心・安全に採用、就労するために、都内にあるNPO法人難民支援協会と協力しながら課題解決に取り組んでいます。2013年度は、難民支援協会の独立行政法人福祉医療機構社会福祉振興助成事業を通じて、難民が日本で働くことを事前に理解することを目的とした就労準備コースに協力しました。
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日本の企業で働くとは?異なる言語、企業文化や風習からくる違いを、単に日本企業のやり方を押し付けるのではなく、何が違うのか、何が期待されているのか、それぞれの経験を話しながら、実際に日本の企業で働くとはを理解します。

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次に、会社見学やOJT機会を通じて、難民も企業もお互いを知り、理解する場を持ちます。実際に、職場に行くことで雰囲気がわかり、また研修を通じて、双方の相性があうかどうか、確かめることができ、企業側も安心して採用できる場を提供しました。
栄鋳造所にとって、難民雇用は自社の成長に繋がる大きな一歩となっています。
*難民とは?(wikipedia)



**TBSの報道特集で取材を受けました。

クリックで以下に抜粋を表示します。



   


難民というと、どこか遠い世界の出来事と考えがちですけれども、日本にも保護を求めてやってくる難民が数多くいることをご存じでしょうか。彼らの中には十分な保護を受けられず、迫害を受けた祖国と変わらない苦しい生活を強いられている人も少なくありません。
難民鎖国とも言われる日本の実態を取材しました。ミャンマーで有名です、みんな食べる。
東京・高田馬場の繁華街にあるミャンマー料理店。タン・タン・チャイさんの素朴な家庭料理が評判を呼び、連日、賑わっている。
2人の子どもたちは生まれも育ちも日本。
高校の制服姿で店を手伝う長女、チョモンさんとの会話はミャンマー語で話しかけても、日本語で返ってくる。夫のタン・スィゥさんは88年にミャンマーで民主化運動に関わった。
翌年、仲間が次々と逮捕される中、治安当局が自宅に踏み込む直前に国を逃れ、日本にやって来た。2000年、日本政府から難民に認定された。
難民として認められると、医療や教育など様々な面で日本人と同等の公的サービスが受けられる。
申請してから結果が出るまで2年近くかかった。
2年前に夫婦で始めた店の経営はギリギリだと言う。それでも、タン・タン・チャイさんの表情は明るい。
大変です、心も体も疲れた。
世界難民の日だった先週の金曜、NGO難民支援協会が店の2階で難民について知ってもらおうというイベントを開いた。
仕事はやっぱり外国人の方が多いんですけれども、難民の話とかしたことないですし。
逃れてきてるんだから、やっぱりそこれで安心して生活できるようにできたらいいなとは思いました。難民のために何かしたいと集まった参加者たち。
しかし、難民が置かれた現実は彼らの想像を超えていた。
日本の場合は難民の認定をされる数というのがすごく少ないんです。難民申請をする人の数は年々増えて、2013年度には3260人に達した。
その一方で、認定された人の数はここ数年減り続け、ついに1桁、6人となった。
難民認定率は、過去最低の0.1%。
認定されるとしても長い時間がかかる。

キン・マウン・ミンさんはミャンマーを逃れ、8年前に日本にやって来た。
これがミャンマーのラカイン州です。
西部ラカイン州を中心に暮らす少数民族、ロヒンギャ族。
国民の9割以上が仏教徒のミャンマーで、ロヒンギャの人々は多くがイスラム教ということもあって、長年、移動の自由や教育を制限された上に、強制労働など、様々な迫害を受けてきた。
民主化運動に関わったことで当局に追われる身となり、26歳の時に隣国バングラデシュに逃げた。
しかし、パスポートを持たない彼には身元を証明するものが何もない。
仕方なくブローカーに金を払って、インドネシア国籍を不正に取得した。
しかし、そのこともやがて発覚し、2006年8月、日本にやって来た法的に認められた存在になるために残された唯一の道は日本で難民認定を受けることだった。

難民とは、人種、宗教、政治的意見などを理由に迫害を受けるおそれがあるために国を逃れた人たちのこと。
難民条約を批准している日本は彼らを保護する義務を負っている。
しかし、日本で難民認定を受けるには難民の定義に当てはまることを申請者自身が証明しなくてはならない。
宮内博史弁護士は、去年初め、キン・マウン・ミンさんが民主化運動に関わっていた証拠を集めるためにミャンマーの隣国、バングラディシュを訪れた。

彼の活動について知っている組織の関係者にもお会いして、実際に彼がどういう経緯で、どういう活動をしていたのかということについても詳しくお伺いしました。
集めた資料は裁判の証拠として採用された。
しかし、ミャンマー国内で迫害されていたという証拠を集めるのは難しい。
それは、日本で難民申請をする人の多くが直面する高い壁だと言う。

ミャンマー人たちこれ大好き。
ミャンマーだっけ?ああそう。
キン・マウン・ミンさんの難民申請は3年前に不認定となった。
今は、処分の無効を訴えて裁判で争っている。
働く許可が得られないため、親族などの援助で何とか食いつないでいると言う。
見捨てないんだよ、かたい。
だから来てくれる、そこが違うよ。
親切だって、心が通じるみたい。
ちょっとそこは日本人と違うかなって感じ。
昔の日本人かな、そういう感じがする。

キン・マウン・ミンさんにはインドネシアに残した妻と3人の子どもたちがいる。
こうしてインターネットを通じて家族と話すのが唯一の楽しみ。
ほぼ毎日こうして1時間は話すのだと言う。
離れ離れになってもう8年。
2歳だった末っ子は10歳になった。
難民として認定されたら、家族を日本を呼び寄せたいと願っている。
私がホッとするのは家族と話しているときだけです。
子どもたちには、無国籍の私のように弱い立場になってほしくありません。
彼らには何の罪もありませんから。
キン・マウン・ミンさんの裁判の判決が言い渡される日が来た。
昨日の夜眠れました?全然寝なかった。
日本の難民認定の数がここ数年減っているのは、民主化によってミャンマー出身者が認定されにくくなったからだと言われている。
しかし、ミャンマー政府は、いまだにロヒンギャの人々を自国民とは認めておらず、迫害は、今も続いている。
そんな状況を裁判所はどう判断するのか。
判決の言い渡しはわずか数分で終了した。
結果は、ダメだった。
難民であるという本人の話が信用できないというのが判決の主な理由だった。
ミャンマー政府は、国民ではない彼を受け入れない。
不法に国籍を手に入れたインドネシアにも帰れない。
無国籍状態の彼には、強制送還される国さえない。
彼のように日本に来なければよかったと、日本で自分は迫害に遭っているんだとそういう言葉を聞くと、やっぱり、日本人として残念ですよね。
キン・マウン・ミンさんは控訴をして、今も裁判を続けている。

東京・新宿区にあるNGO難民支援協会の本部には50カ国から年間延べ2000人近くの人が難民申請などの相談に訪れる。
アフリカ出身の30代のこの男性は、宗教を理由にした迫害から逃れ、今年の4月に日本にやってきたと言う。

一時的に身を寄せるシェルターにたどりつくまで、2週間ほど野宿をしました。
難民の保護を国の政策に掲げているなら、到着後、すぐに寝泊まりできるような施設をつくってほしいです。
日本の難民認定率は、ほかの主要国と比べると極端に低い。
日本を手本に、10年遅れて難民条約に加入した韓国にさえも、追い越されてしまった。
日本の難民政策が世界から遅れをとる中、民間レベルでは新しい試みが始まっている。

東京・八王子にある鋳物工場。
ここで去年から1人の外国人が働いている。
カメルーン出身の****さん。
車などに使われるアルミ部品を製造している工場で、主に製品の研磨を担当している。
母国ではワインのマーケティングや営業の仕事をしていた彼にとっては、全くの畑違いだが、覚えは早かったと言う。

政治的な圧力を受け、身の危険を感じて2年前にカメルーンから来日した****さん。
難民認定を申請し、結果を待つ間、仕事をする許可を得ている。
認定が下りたら、3人の子どもたちを呼び寄せたいと願っている。

鈴木社長は会社の存続のために、海外に視野を向ける必要があったと話す。
あえて難民を雇ったのには理由があると言う。
彼らもそれなりの覚悟を持って来ているので、その働き方の姿勢であるとか、そういうことがすごく社内にはいい刺激になりましたし、2カ国語、3カ国語ぐらいはしゃべれてしまう、本当に能力の高い方々が難民というくくりの中にもいるんだなというのがすごくわかりましたね。

実はこの会社、難民を雇うのは****さんで6人目になる。
従業員30人足らずの小さな会社に文化も習慣も違う外国人が入った当初は、双方に戸惑いや混乱が生じたと言う。
理由は様々だが、そうしたこともあり、5人が辞めていった。

大変だからいいよ、外国人はってならなかったの?いや、なりましたよ、やっぱり。
なりましたけど、じゃあ、今までも自分たちの仕事、ちゃんと教えられてたかという見直しができたかなと思います。
難民が次々と辞めても、採用をやめようという話にはならなかったと担当の新さんは言う。
1勝というのが、変な言い方ですけど、彼ですね。
あと5敗というのは、残念ながらここを去ってしまった外国人のことを指してるんですが、その5敗がある意味、改善を絶対にしなければいけない5つの悪いポイントだったととらえれば、まあ、これが1勝した、これから2勝、3勝と目指していくことができるのかなと思います。
じゃあ大事な1勝ですね?大事なうちのエースです。

今では日本人従業員たちも仕事の合間に積極的に英会話のレッスンを受けるなど、目に見えて意識が変わってきたと言う。
家の家賃は高いねとか、私も英語しゃべれないんですけど、何となく片言でわかるんで。
****さんは、働きぶりを評価され、去年の12月、入社3カ月で外国人としては初めての正社員となった。
とてもうれしかったですね。
社長が私のことを信頼してくれたんです。
それは簡単なことじゃないとわかっています。
私にとっては、それが何よりもうれしいんです。

今後も難民の採用を続けたいと話す鈴木社長。
ゆくゆくは、会社を担う存在になってほしいと期待している。
外国人ってどうしてもワーカーというイメージで、汚い仕事もさせられて、低賃金でみたいな。
この先、いつ日本政府から難民認定がもらえるかはわからない。
もらえるという保証もない。
しかし、もう帰る場所がない****さんは日本で生きていくと決めている。
15歳になる長女がとても優秀なので、日本の大学に行かせたいと願っています。

改めて各国の難民認定率比べてみますと、アメリカ52%、カナダ44%と続いて、日本より遅れて批准した韓国も8%ということで、日本の0.1%というのが桁違いに低いということがわかりますよね?日本の難民認定は6人という1桁、非常に低い数字だったんですけれども、実はそれとは別に、在留特別許可、これを受けた人が151人いて、この数字というのは逆に増えているんですね。

ただ、この在留特別許可だと、たとえば難民の人たたちが望んでいる家族の呼び寄せだとか、そういったことが非常に難しかったり、ほかにも難民の人が受けられる様々なサービスとか権利を受けられないということがあるんですね。
これは現状ではいわば難民認定をしないための言い訳みたいにして使われてると言っていいかと思うんですが、やはり難民認定をすべき人は、難民認定をしていくというふうにしていった方がいいんじゃないかと思います。

難民の人たちというのは、闇雲に日本に来るわけじゃなくて日本が難民条約を結んでいるから、保護を求めてやってきているので、現状から言うと、これは看板に偽りありと日本が批判されてもしようがないですね。
VTRに出ていたロヒンギャのキン・マウン・ミンさんなどは、もしアメリカとかほかの国に行っていたらもうとっくに難民認定されているかもしれないんですよね。

日本は難民を救うための制度ではなくて、どちらかというと、退けるための制度になっているというふうに言えるんじゃないかと思います。
もう少し保護という視点を持った制度にしていく必要があると思います。

一方で、政府は外国人労働者をこれから受け入れようみたいな、そういう主張と、この難民認定が困難になっているという状況は、どこかで共通している考えがあるような気がしますが?どうもこちらの事情ばかりが優先されている印象というのはやはりありますよね。
難民にしても、外国人労働者にしても、それぞれ思いがあったり、事情があったりすると思いますけれども、やっぱり我々も含めて受け入れる側はもっと1人1人の人間として見て、扱っていく必要があるんじゃないかと思います。